森羅万象退屈至極。

やっぱり書きたい。

今日はお休みデイ。


爆睡の為、娘はガッコお休みです。←
たまには、そんな日もあるんでしょう。
世間的には「ナシ」なんですが、無理矢理頑張ったって結局体調壊して三日間くらい休みになってしまうので、「三日間」よりは「一日しっかり休む」を選択します。


その方が「良いパフォーマンス」に繋がるんですよね。


「皆が行ってるんだから行きなさい」とは言いません。
自分は子供の頃、熱があっても「行けば治る!」という父親の謎理論で行かされたクチなんですが(昭和あるある?)、そして確かに「行けば治った?」時もありましたが、授業なんて頭に入らなくて、ただひたすらこなしていただけなので、「出席した」という事実だけしか残らなかったんですよね。


「何しに行ってんねん、勉強ちゃうんけ?」って話ですよ。


ただ、「行けそうなら行きなされ」とは言います。
「それでも行けない理由があるなら、ちゃんと自覚出来ているかの確認と、それに対しての「穴埋めをどうするか」まで考えさせ」ます。「眠い」を理由にする場合ですけどね。←
それが「自分に対してのケジメ」です。


『早く寝る』に越した事は無いのですが、やはりこの時代のせいか、今の小学生は『やりたい事が多過ぎ』なんですよ。
そして「時間が足りない」んですよね。
これは大人にも言える事ですけれども。←


ただ大人はほら、「大人だから」調整も出来ますが、子供はね。そうはいかないんですよね、成長途中だしね。
親としても、一応「声かけ」はしますが、「コントロール」まではしてはいけない気がするので、なるべくなら「自戒出来るように」促していこうかな、と。


『甘い!』と言われがちですが、長期スパンで見てみると、「泣きながら無理矢理学校行った結果」、「中学高校大学で、親の目が無くなった途端サボるようになった」とか、「学校は無理矢理でも行かなくてはいけない場所だと親に植え付けられた結果」、
「社会に出ても『休むのが怖い』と感じて、鬱になるまで自分を追い込んでしまう大人」になっちゃった。とかね。


そっちの方が嫌じゃないですか。


娘にも、出来る事なら「自分を知っている人間」になって欲しいなぁ、と思うワケです。
闇雲に「頑張らんで良いんやで」なんて言いません。
無闇に「頑張らんかい!」とも言いません。


ただ、「頑張れそうな時は、一生懸命やれ」と言います。
頑張れなければ、「1日しっかり自分を休ませる」、
頑張れたのなら、「頑張った自分を褒めてやる」。


相方は『理想論だ』と言いますが、同時に「羨ましい」と思う時もあるそうです。
「自分もそうやって、許して欲しかったなぁ。」と。



どう成長するかは、娘の素質もあるので、上手くいくとも限りませんが、それでも、その際はまたしっかり向き合って、会話して、対策を取る事が出来る「信頼関係」は出来上がると思います。
無駄に「親の権利を振りかざす」だけでは、「信用がた落ち」になって、その親がもし「失敗した場合」、


『ほら見た事か!普段偉そうにしてるクセに!』


なんて子供に言われてしまいますよね。
そんなん嫌や!(笑)娘にそんなん言われたら死ねる!(笑)



だから普段から娘に言うのは、
「ママも当たり前やけど人間やで、間違うさかいな、『ママはそう言うけど私はこう思うよ!』って思えば、どんどん言うてきてな。お前さんの見てる世界の「正解」が、ママの見てる世界の「間違い」の時もありますさかいに。」
という事です。
『自分には見えない、子供の世界を尊重したい』と思うから、
やっぱり子供からのアクションを大事にしたい。


要するに、「知りたい欲求」です(笑)
娘大好きなバカ親なので、行き過ぎないように気を付けます。


その「ブレーキの役割」を、「姉貴」が担ってくれているんですよね。自分の場合は。
自分一人だとどうしても、娘を束縛する、徹底的に管理下におく、という「歪んだ愛情」になりがちなので、この歪んだ愛情を一心に受け止めてくれる姉貴の存在が、必要なんです。


子供で発散してはいけない。
相方はそもそも「同性」なので無理。あと、相方は意外と「理性的に対処出来ないタイプ」なので、この「歪み」をそもそも「理解」出来ないしね(笑)
『自分さえ気持ち良ければ何でもいい』という人には、『相手なんて知る必要はない』という考え方が標準搭載されています。←
「でも自分の事は可愛がってよね!」という。
ハイ、却下。(笑)


なので、姉貴にお世話になっとります(笑)



昔、姉貴に言った事があったんですよ。
まぁ、テンプレみたいな「野郎の征服欲」ってヤツです。
「お前は俺のモンだからな」って。←
そしたら姉貴に、


『冗談じゃないわ。私は私のモノよ、誰にもあげないわよ』


って言われてしまったんですね。
一瞬、「え?」ってなったんですが、そのあとに、


『私の大事に育ててきた「女としての私」だけよ、アンタに預けてるのは。私の中の「女として以外の他の私」は、もしかしたら誰かの為のモノになるかも知れないけれど、それを選ぶのも私の自由なの。全部アンタのモノなワケないじゃない。』


『その代わり、アンタの中の「男としてのアンタ」は、私のモノよ。誰にも渡さないわよ。』


と、言われたんですね。


『だからアンタは精々、私の「女の部分」を満足させて頂戴。私もアンタの「男の部分」を満足させてあげるわ。』
『アンタは、私の前でだけ「男」で居ればいいの。』


、、、えー、っと。


それは○クロスの事かな違うよな。←


「恋愛の真髄」を垣間見た気がするのは自分だけでしょうか。
「なるほどな」と素直に思いました。
『じゃあ、もうそんなに「対外にどう見えるか」なんて拘らなくても良いよな』とさえ思えた瞬間でした。


「自分を『男として扱ってくれるのは、自分が選んだ人にだけで充分』だったんだなぁ」と思いました。
あくまで、「自分の場合は」ですけどね。


他の方々はそれぞれの思いがあるんでしょうし、何より、自分が「そうではないか」と疑った「性同一性障害」の方々の、
『自分が男(女)である事は間違いなく、それに合わない身体で生きていく事が苦痛である』
という状態に、『自分は該当しない』。


ただ、自分は、「ただ一人の人間」で、「身体性別は女性ではあるが、『男の部分』があり、「自分を知っていて欲しい相手」にとってのみ『男』を受け入れてもらえたなら、対外にどう見えても、拘りはないんだなぁ」と。


仕事なんて、「男女差で制服とかがある職場を選ばなければ良い」し、風呂やトイレも、「行かなければ良い」し。
「手術する事で変わるのは、対外に与える情報だけなので、そこに拘りがないのなら、敢えてリスクは負いたくない」し。


子供が居る今は、特にそう思います。
これで自分がもし手術を選択して、「卵巣嚢腫子宮筋腫で手術をした継母の苦痛と同じ状況になった時、誰に一番迷惑がかかるか」と考えたら、「子供」なんです。


それは「子供が成人しても同じ」ですね。
「ただでさえ、年を取ればあちこちガタが来るし、そのケアもしなければならないのに、手術で更にリスクを負えば、自分の精神衛生上宜しくない事は明白」です。


「自分はそこまでの症状は無いのだから、ある意味幸運だったと思うし、同列に語るのは筋が違うよな」と、思っています。
『その苦痛や苦悩の度合いは、本人にしか解らない』ですもんね。



だから自分の場合は「妄想の域を出ない」と自覚して、謙虚に粛々と生きていこうと、真剣に思います。


『自分が開示したい相手にのみ、「一方的に理解してもらう」のではなく、「納得してもらえるように自分が行動」する事の方が、自分にとっての「認知」である』と、思います。



あくまで、「自分の場合」の話、でした。
姉貴が「オソロシイ」という、お話(笑)




また次回。